懐古ゲーマーと名作ゲーム
センジュくんとUstでゲームについて色々と話して思ったことをまとめてみる。
Ustのアーカイブ配信はようわからんのでURLは生貼り。
僕もセンジュくんもいわゆる懐古ゲーマーと呼ばれる類の人種で、かつてやったゲームに大してアレは良かったこのシステムは素晴らしかったと語り合うことが多いのだが、しかしこれは真にゲームを楽しむ人=ゲーマーとしては正しい楽しみ方なのであろうかという疑問が喋っている間に生まれた。
僕たち二人のあいだの共通認識として、ゲームとは「適切な課題設置」を行う製作者と、「課題解決」を行うプレイヤーの意思疎通を行うツールであり、ゲームを楽しむという行為は、いかに課題を解決するか?課題を解決するためのリスクとリターンをどう釣り合わせるか?を思考することが本質であるという結論が出ている。
しかし一度プレイした名作ゲームをもう一度プレイすることは、この定義には当てはまらない。何故なら、一度プレイしたゲームは、既に解き終えた問題集を再度行うがごとき行為であり、ゲームの本質である課題解決が行われない、もしくは、過去の経験から課題の解法をカンニングし、それをなぞるように手順をクリアしていく行為であるからだ。
しかし僕たちはその行為に一種の快感を覚えている。
記憶というものは完全ではない。故に、完全に課題の解法をなぞっているわけではない。しかし、例えば「この敵には炎属性の攻撃が効く」などの断片的な情報はいつまでも残っているもので、現に僕自身過去やったゲームをプレイしていて、断片的な攻略情報から解放を容易に導き出すような経験を何度もしてきた。
見えないパズルピースを記憶から可視化し、それをつなぎ合わせていくことにゲーム的快感を覚えるのだろうか。否、それは違うと思う。課題解決はパズルピースを集めていくことから始まる。故に、既に揃ったパズルピースをつなぎ合わせる行為は、課題解決とはならないのである。(ここは諸氏意見あると思うけど、少なくとも僕はそう思っている)
ここから推論するに、おそらく、僕たちが得ている快感というものは、ゲーム的な快感ではない。課題解決に対する快楽ではなく、自らの記憶をたどっていく、まるでアルバムを見ながら自分の中の思い出を掘り返していくような、いわば一種の自己肯定の儀式、そして、それに伴う一種の安心を快感と勘違いしているだけなのではないだろうか。
もちろんそれを否定するつもりはない。ただ、それをゲーム的な快感と誤解したままゲームをやり続けていくと、自分がゲームに求めるものが何なのかを確定せぬままに新たにゲームを選び、そしてやるんじゃなかったこんなクソゲー、と、的はずれな感想を抱いたままにそのゲームを「完結」させるのである。
それは不幸でしかない。プレイヤーにとっても、製作者にとっても。
故に、僕たちがゲーマーとして有り続けるためには、自分がゲームの何に快感を感じているのかを常に頭の片隅に置きながらゲームをプレイし続ける必要があるのだろう。
何ゲームにマジになっちゃってんのという指摘が聞こえてくるようだが気にしない。
暴論なので異論は認めます。っていうか認めまくります。